生誕200周年!ショパンの生涯をたどって: その6 (完) 永遠の別れ

ディヌ・リパッティによるワルツ集
Last Recital at Besancon
リパッティ ブザンソン告別リサイタル
J.S.バッハ: パルティータ第1番
モーツァルト: ピアノ・ソナタ第8番
シューベルト: 即興曲D899-2、3
ショパン: ワルツ集
ディヌ・リパッティ(ピアノ独奏)
1950年9月16日、フランス・ブザンソン(ライヴ)


ジョルジュ・サンドと別れて以降、ショパンの健康状態も悪化を続けていた。おりしもパリでは、1848年に勃発した「2月革命」のあおりで、社交界はすっかりなりを潜め、レッスンもままならない状態となったショパンは、経済的にも苦境に立たされた。

窮状に同情した弟子の一人で、スコットランドの大金持ちの令嬢であったジェーン・スターリングから、ロンドン行きの誘いを受けたショパンは、とても旅など出来る状態ではなかったにも関わらず、この申し出を受ける事にした。

        Jane Stirling
        ジェーン・スターリング

イギリスでの滞在は、パリでの友人達が危惧した通り、ショパンの寿命をさらに縮める結果となった。

「イギリスでは、芸術というのは絵画や彫刻、建築の事で、イギリス人にとって、音楽とはあくまで職業で芸術とは見做されていない」と嘆いたショパン、経済的にはひと息ついたものの、演奏会やら、音楽という芸術に理解のない貴族との付き合いやらで、肉体的にも、精神的にも疲弊するばかりでまさに限界の状態となった。

結局、5カ月の滞在で6回の演奏会(パリでの18年間で10数回しか演奏会を行わなかった事からすると、経済的な困窮ぶりが強く伝わってくる)を行い、1848年11月にロンドンからパリに戻って来たショパンだったが、もはやその命も終わりに近づいていた。

ショパンが、その39年の生涯を閉じたのは、翌49年の10月17日。へ短調のマズルカ(Op.68-4)が絶筆と言われているが、この曲を含め1948年以降はわずか2曲の作品しか残していない。よほど肉体的・精神的に疲弊していたのだろうか。また、それほどサンドの存在が大きかった、という事も言えるのかもしれない。

      Chopins Death Mask
      ショパンのデス・マスク

ショパンの葬儀は、パリ8区のマドレーヌ寺院で行われたが、パリの著名人のほとんどが駆け付け、参列者は3千人にのぼったと言われている。ただ、そこにもサンドの姿はなかった。ショパンが死ぬ時まで大事に持っていたサンドからの手紙の束を託された作家のデュマ・フィスが、喜んでサンドに返した所、手紙は全て捨て去られてしまったそうだ。あくまで過去を振り返らず、前だけを見続けて生き抜いたサンドらしい行為であった。     

     La Madeleine
     ショパンの葬儀が行われたパリのマドレーヌ寺院

さて、ここに挙げたCDは、33歳で白血病のため夭折したルーマニアの天才ピアニスト、ディヌ・リパッティが、死の2か月前、1950年9月16日にフランスのブザンソンで行った生涯最後のリサイタルを収録したもので、メインとして、ショパンのワルツ集を演奏している。

ワルツ全盛だったウイーンで拒絶された割に、ショパンは20曲以上ものワルツを作曲しているが、彼のワルツは、ウイーンで流行ったワルツとは一線を画す、「踊れない」ワルツで、マズルカの要素が含まれたりしていて、やはりショパン独自のワルツになっている。

この頃、すでに症状が悪化していたリパッティは、医師団が止めるのも振りきって、「ブザンソンで演奏するという約束を果たさなければならない」と言って、スイスからの列車に乗ったという。ブザンソンに到着した時には痛みのあまり気を失っていた程の状態であったそうだが、ここでの演奏は、そのような状態にあった事をみじんも感じさせない、清冽で力強さすら感じさせる演奏。

この演奏を聴いていると、ロンドンで、命を削りながら演奏会の舞台に立っていたであろう38歳のショパンの姿とリパッティが重なり合ってきて、思わずジーンと来てしまう。

演奏会の終盤、ついに力尽きて最後に演奏する予定であったワルツ第2番を弾く事が出来ずに担架で運び出されたリパッティ。ここで聴かれる演奏は、まさに「魂の音楽」という言葉がふさわしいと思う。
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テーマ : クラシック
ジャンル : 音楽

生誕200周年!ショパンの生涯をたどって: その5 サンドとの別れ

ポリーニが弾くポロネーズ集
Polonaise Pollini
ポロネーズ全7曲、Op. 26~61
マウリツィオ・ポリーニ (ピアノ)
1975年 録音


ショパンサンドと暮らすようになってから8年が経とうとしていた。この頃には彼らの関係は恋人同士というようりも、細々と世話をする母親と病弱な息子の関係のようになっていたが、何かと神経質なショパンの振る舞いに、サンドも段々戸惑いを感じるようになっていた。彼らの関係がさらにギクシャクするようになったのはサンドの二人の子供たちが原因だった。

サンドが溺愛していた長男のモーリスは最初からショパンにはなついていなかったが、この頃には反抗的な態度をあからさまに示すようになっていた。

そして、運命の1847年、今度は母親と折り合いが良くなかった長女のソランジュが彫刻家のクレザンジェと結婚するという出来事が起きた。ショパンがかわいがっていたソランジュと周囲の評判が悪かったクレザンジェとの結婚をショパンが反対したにも関わらず、サンドが結婚を後押しした事でショパンの気持ちは大きく損なわれた。

   Maurice Sand Solange Sand
   サンドの子供たち: モーリスとソランジュ

案の定、結婚して1カ月も立たないうちに、借金を抱えていたクレザンジェは、ノアンにいたサンドのところに押しかけ、金を脅し取ろうとし、モーリスと決闘沙汰になる。ノアンから追い出されたソランジェから窮状を訴える手紙を受け取ったショパン、結婚には反対したものの、窮地にあるソランジュがかわいそうになって、サンドに宛てて非難めいた手紙を書いたのが、二人の別れを決定的なものにした。

このようなゴタゴタに巻き込まれていたことと、結核の症状が進んだ事もあって、この頃の作品はあまり多くないが、作品60の舟歌など、珠玉の作品が書かれている。

   ⇒ ツィマーマンによる舟歌の素晴らしい演奏 Barcarolle Zimerman

ポロネーズ第7番、通称「幻想ポロネーズ」もこの頃、1845~46年にかけて作曲されたもの。

ポーランドの代表的な民族舞曲であるポロネーズは、モーツァルトやベートーヴェン、シューベルトなどの大作曲家たちが作曲に使用しているが、子供の頃から慣れ親しんだ故国の舞曲を真に芸術の域にまで高めたのは、ショパン以外にはいない。

子供の頃に書いた作品も含め、ショパンはその生涯にわたってポロネーズを書き続けていて、よく「ショパンの作曲家人生はポロネーズに始まり、マズルカに終わった」と言われる程、故国のもう一つの代表的な舞曲であるマズルカと共に、愛着を持っていた。大人になってから、亡くなるまでのほとんどをパリで過ごしたにも関わらず、彼の心は常に故国ポーランドにあったのであろう。

幻想ポロネーズは、ポロネーズのリズムをベースにしているものの、自由な転調、次々に変化していく曲調など、もはやそういう次元を超えたところで作曲されているような、幻想的な曲になっている。まさに晩年(といっても、わずか36歳)のショパンが到達した境地が伺われる。

毎度毎度で恐縮だが、ここでもポリーニの演奏が素晴らしい。特にこの幻想ポロネーズでは、彼の透徹としたピアノの音色が曲に本当に良くマッチしていると思う。

テーマ : クラシック
ジャンル : 音楽

生誕200周年!ショパンの生涯をたどって: その4 パリとノアンでの充実した日々

アシュケナージが弾くバラード&スケルツォ集
Ballades Scherzos Ashkenazy
バラード全4曲、Op.23~52
スケルツォ全4曲、Op.20~54
ウラディーミル・アシュケナージ (ピアノ)
1975~85年録音


1839年2月、ほうほうの体でマヨルカ島を出発したショパンサンドの一行は、3か月ほどフランス・マルセイユに滞在して、ショパンの体調の回復を待った。

気候も良くなった5月、人々でごった返すパリを避けて、一行はサンドの故郷であるフランス中部ベリー地方のノアンにあるサンドの館に移動する。この後の数年間は、夏はノアン、それ以外の季節はパリで生活するというパターンが続くが、ショパンの健康が比較的安定していた事と、サンドとの仲もやはり安定していた事もあって、ショパンの生涯で最も充実した創作の期間となった。

     Demeurt de Sand a Nohant
     ノアンにあるサンドの館

この期間に作曲された主要作品には、ピアノ・ソナタ第3番や、従来のものに較べ、格段に内容が充実し、深みを増した数々のマズルカ、ノクターンなどがあるが、それぞれ4曲あるバラード、スケルツォの後半2曲(第3、4番)もこの時代の作品。

⇒ 若き日のアルヘリッチによるソナタ第3番の名演 Sonata 3 Argerich

バラードは、元来は中世の源を発する詩形の一つだが、これを初めてピアノ曲に転用したのがショパン。ショパンのバラードは彼が尊敬していたポーランドの革命詩人、ミツキェヴィチの詩と深く関わりがあると言われているが、聴いている限りはそのような事は伺い知れない。

個人的な好みは第1番なのだが、第3番と第4番は、バラードという言葉から受ける曲のイメージを大きく超える、まさに交響詩のような充実した内容になっている。

ベートーヴェンが交響曲の中で、従来使用されていたメヌエットの代わりに取り入れたスケルツォを、単独のピアノ曲に取り入れたのもショパン。第3番と第4番は、スケルツォが持つ「即興性・気まぐれさ」といったものに加え、情熱や憂愁、不安感など、様々な感情が込められている点が素晴らしい。

N響の指揮者など、最近ではもっばら指揮者稼業で忙しくなってしまったアシュケナージ。指揮者としての音楽づくりは結構大雑把な印象があるのだが、ピアニストとしてのアシュケナージは素晴らしいと思う。何よりも、彼独特の、艶やかな美音が魅力的。同じピアニストでもなぜこうも音色が違うのだろうか。このCDでもその美音を生かして素晴らしい演奏を繰り広げている。



テーマ : クラシック
ジャンル : 音楽

生誕200周年!ショパンの生涯をたどって: その3 サンドとの出会い・マヨルカ島への旅

ポリーニが弾く前奏曲集
Preludes Pollini
前奏曲集 Op.28
マウリツィオ・ポリーニ (ピアノ)
1974年録音


亡命貴族を中心とするパリのポーランド人社会の支援を受けて、パリでの生活を軌道に乗せたショパン。その当時(1834年頃)のショパンのアパルトマンは、高価な家具や調度品・花であふれていて、まるで美術館のようだと言われていた

リストもその頃、頻繁にショパンの家を訪れ、お互いの曲を競うように弾き合っていたが、ショパン自身は、リストがショパンの作品を弾くのを、絶対に演奏して欲しくないような「過激な弾き方」で弾くと言ってあまり快く思っていなかったようだ。

       Chopin and Liszt
       ショパンとリスト

1836年には、前年に再会したワルシャワ時代の友人であるヴォジンスキー家の令嬢マリアと恋に落ち、婚約するが、その当時から現れた結核の症状を心配した彼女の両親によって、結局、婚約は解消するはめになる。

この頃の作品では、「別れのワルツ」の名前で有名な作品69の1のワルツがある。この曲は婚約前、ヴォジンスキー家が滞在していたドレスデンでマリアと楽しい日々を過ごした後に、パリに帰らなければならなかったショパンが別れ際にマリアに捧げた作品だが、恋愛中のショパンの感情を表わす感傷的な曲になっている。

       ⇒ ルイサダによる個性的なワルツ集 Valses Luisada

女流作家として華々しく活躍し、社交界の注目の的となっていたジョルジュ・サンド (1804~76年)と出会ったのはこの頃。当初、ショパンは、年上で男まさりのサンドに近寄りがたさを感じていたらしいが、異国の地で一人暮らすショパンにとって、自分を母親のように心地良く包んでくれるサンドに惹かれていくのに、それほど時間がかからなかったようだ。

       George Sand
       ドラクロワが描いた有名なサンドの肖像

そうして、1838年、せき込みがちで体調がすぐれないショパンを温暖な地で過ごさせたいと、サンドはスペインのマヨルカ島へ、ショパンを連れていく事にする。

ところが、雨期にさしかかる時期であったこと、ろくろく下調べもせずに気楽に渡航してしまったことから、家探しにも苦労し、パリから送らせたピアノも届かず、かつ島の人々から、結核のショパンが白眼視された事等により、ショパンの症状はますます悪化、一時は「血の海で溺れるのではないか」と周囲が心配するほどの状態となった。

     Valdemossa.jpg
     ショパンとサンドが落ち着いた荒れ果てた僧院があったヴァルデモッサ村

そのような最悪な状況の中、ようやく届いたピアノに向かって完成させたのが、この前奏曲集バッハの平均律クラヴィーア曲集のように、24の長短調を使って作曲されたこの曲集(但し、調性の配列は異なる)、1分に満たないような短い曲から、7分を超える曲まで、それぞれ独自の個性を持った曲の集まりが、一つの小宇宙を作っているようなあまりにも美しい曲集。

毎回ポリーニで芸が無いが、この曲集をポリーニはまたもや完璧に弾いている!今年の春にカーネギー・ホールで聴いた彼の演奏では、テンポがより自在になり、このCDの当時とはまた違った名演だったが、ここではもっとストレートでありながら、かつショパンが1曲1曲に込めた感情や微妙なニュアンスも十全に表現した演奏が聴ける。

以前にもご紹介したが、この曲集について、シューマンの次の言葉ほどその神髄を表わしたものはないと思う。

「正直に言って、私なら別な風にこの曲集を考えたと思うし、彼の「練習曲集」のように、この上なく立派な様式で作曲したと思う。だがショパンがしたのは、ほとんどその逆だった。ここにあるのはスケッチであり、エチュードの発端であり、あえていえば廃墟であり、胴体なき鷲の翼であり、あらゆるものの、多彩で乱脈な継起である。しかしどの曲にも、真珠のような美しい書体でこう書き込まれているではないか。“フレデリック・ショパンがこれを書いた”と。(礒山 雅氏訳)」


ちなみに先週、5年に1回行われる、ショパン国際ピアノ・コンクール (ポリーニは1960年の優勝者)の最終結果が発表されたが、今回は25歳のロシアの女性ピアニスト、ユリアナ・アヴディエヴァさんが優勝! 今回は日本人は残念ながらファイナルには一人も残れなかった。彼女は来年1月にニューヨーク・フィルの定期演奏会でショパンのピアノ協奏曲第1番を演奏する予定となっており、楽しみだ。

     Yulianna Avdeeva
     ショパン・コンクールで演奏するアヴディエヴァさん

テーマ : クラシック
ジャンル : 音楽

生誕200周年!ショパンの生涯をたどって: その2 ウイーンでの挫折、そしてパリへ

ポリーニの奇跡の名演: 練習曲集
Etudes Pollini
練習曲集、Op.10 & 25
マウリツィオ・ポリーニ (ピアノ)
1972年録音


1830年11月、期待を胸にウイーンに出てきた20歳のショパンだったが、1814~5年に行われたウイーン会議以降、ワルツが流行していたウイーンではポーランド出身の若いピアニストなぞはあまり見向きもされず、演奏会も開けないショパンは、悶々とした日々を余議なくされることとなった。

ショパンがウイーンに向けて出発した直後に、ワルシャワではロシアによる支配に反発した人々が武装蜂起し、独立を宣言したものの、翌年にはロシアに武力弾圧されてしまう。親友ティトゥスをはじめ、ショパンの多くの知り合いがこの武装蜂起に参加したのを異国で見守る事しか出来ず、愛国心を掻き立てられたショパンの苦悩は深まるばかり。

彼が、ポロネーズと並んでポーランドを代表する民族舞踊であるマズルカに基づいたピアノ曲を本格的に作曲し始めたのはこの頃。ショパンは60曲にも上るマズルカを、生涯にわたって作曲し続ける事になる。

  ⇒ ルイサダによる素晴らしいマズルカ集 Mazurkas Luisada

ウイーンでの生活に失望したショパンは、1831年7月、パリへ移る決心をする。

その頃のパリには、ワルシャワから亡命してきたショパン旧知の貴族が多数滞在していて、ショパンを暖かく迎えてくれた。その頃パリに滞在していたリストメンデルスゾーンらとも知り合いになり、順調にパリでの生活をスタートする事が出来たショパン、1832年2月には念願の演奏会も開く事が出来た。
          Salle Pleyel Concert Feb. 25, 1832
          パリでの最初の演奏会のプログラム

ピアノ協奏曲第1番ほかを演奏したショパンだったが、「ピアノの音が小さ過ぎる」との評が多く、あまり芳しい出来ではなかったらしい。ポーランド時代から言われていた、この「音が小さい」という評は終生、ショパンに付きまとう事になる。極端なあがり症だった事もあり、以降、ショパンはリストのようなコンサート・ピアニストとしての活動よりは、サロンでの演奏を好むようになる。この事が後のショパンの作曲活動にも影響を及ぼしていったのであろう。

一方、ポーランドの亡命貴族たちの紹介、また、ピアノの先生としての評判が高かったこともあって、レッスンの口は順調に増え続けていった。それと同時に貴族や富豪たちが開くサロンへの招待もうなぎ昇りになり、ショパンはパリでの成功に確信を深めていった。

こうした時期に完成されたのが、「練習曲集」作品10の12曲、作品25の12曲の計24曲からなるこの練習曲集、作曲を開始したのはワルシャワ時代の1829年で、作品10は1832に完成。作品25は1836年に完成している。

それまでのチェルニークレメンティらの手による、どちらかといえば無味乾燥な練習曲とは異なり、ショパンのそれは、ピアノの演奏に必要な運指法・フレージング・デュナミーク・リズムのみならず、演奏家として必要になってくる音楽的ニュアンスの表現まで、技術的な要素と音楽スタイルは深く関係していると考えていたショパンが、ピアニストに必要だと考えていた全ての要素を盛り込んだ、画期的な練習曲集だった。

実際、指の訓練だけで1日3時間は必要といっていたリストと違って、練習時間を長くし過ぎないで、本を読むことや様々な芸術を鑑賞する事も大事だと言ってたショパンの教え方は他とは違っていたらしい。

技巧と音楽性が高い次元で結びついた奇跡のようなこの練習曲集を、これまた奇跡のように完璧に弾き切ったのがポリーニの演奏。

1960年に若干18歳でショパン・コンクールに優勝したポリーニだが、その後はしばらく沈黙の時期が続いた。その間、ミラノ大学で物理学を学んだり、イタリアの名ピアニスト、アルトゥーロ=ベネディッティ・ミケランジェリに師事したりした後、1968年にコンサート活動を再開。1971年よりレコード録音も開始した。

ほどなくして録音されたのがこの1枚。ここでは、ギリシャの大理石像を思わせる透徹した音色で、技術的に難曲揃いの曲集を完璧に弾いている。しかも決して冷たい演奏ではなく、ショパンがこれらの曲に込めた感情・詩情を見事に表現しているところが素晴らしい!評論家をはじめ、多くの人がこの曲集のベスト・ワンに挙げるが、本当に奇跡のような演奏だと思う。

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