没後100周年: マーラーの生涯をたどって ~ 交響曲第10番

1909年の夏、ニューヨークからウィーンに戻ったマーラーは、チロル渓谷トーブラッハ村で順調に交響曲第9番の作曲を続けた後、秋になってニューヨークの音楽シーズンが開幕した後も、指揮活動の合間をぬって作曲を続け、1910年4月に同曲を完成させた。

       Mahler in New York 1910
       1910年頃、ニューヨークでのマーラー

1909~10年のシーズンも精力的に指揮者としての活動を続けた後、夏に再びウィーンに戻って行ったマーラーだったが、ここで彼にとって衝撃的な事件が発生する。

     Mahler 1910
     同じく1910年頃のマーラー

いつものように作曲に専念するために、トーブラッハに向かったマーラーとは別に、神経症の治療のために、グラーツ近郊のトートーベルバートに滞在していた妻のアルマが、そこで建築家のワルター・グロピウスと恋に落ちてしまったのだった。

       Walter Gropius
       ワルター・グロピウス(1883~1969年)

ある日、マーラーの元に「マーラー監督様」と宛名がしたためられた手紙が届いた。しかしながら、手紙の内容はグロピウスからアルマに宛てたもので、「君なしには生きていけない。少しでも自分の事を好きなら、全てを捨てて自分の元に来て欲しい」と書かれてあった。

当然の事ながら、この手紙を読んだマーラーのショックは大きかった(居間でアルマがそばにいる時に読んだらしい)。ショックに打ち震える声で「これは何だ」と言ってその手紙を渡されたアルマはついに、結婚して以来、音楽活動に夢中なあまり、自分の事を一向に顧みようとしないマーラーに対する長年の不満をぶちまけた。

       Alma Mahler

これに対するマーラーの答えは、「君の好きなようにしなさい」だった。結局、アルママーラーの元にとどまる事を選ぶが、この事件を境に、夫婦間の力関係は完全に逆転してしまった(ドラマのようなお話ですね...)。この事件のショックは、この夏から作曲を始めていた交響曲第10番に色濃く影響を与える事になる。

こうした事件に見舞われながらも、9月にはミュンヘンで1030名の楽員・合唱団を擁しての交響曲第8番の初演が行われ、生涯で最大の成功を収めた。演奏終了後の聴衆の熱狂的な拍手は30分以上も続いたという。

     Mahler Performing his Symphony 8 in Munich
     第8交響曲の初演の様子

こうして、ついにマーラーの時代がやってきたかのように見えた時、彼にはあと8カ月の命しか残っていなかった。この演奏会の練習時から扁桃腺炎でしばしば発熱していたマーラーは、ニューヨークでの秋の音楽シーズンが始まってからも、体調の不良を訴えていた。この頃にマーラーと会った人々は、マーラーがめっきり老けこんだ事を証言している。

      Mahler in 1910

それでも、前シーズンの44回を大幅に上回る65回の演奏会をニューヨーク・フィルと予定していたマーラーは、恒常的に発熱に見舞われながらも多忙なスケジュールをこなしていたが、1911年2月21日のカーネギー・ホールでの演奏会(これがマーラー最後の演奏会となった)終了後、ついに倒れてしまう。医師の診断は、溶血性連鎖球菌(いわゆる溶連菌というやつですね)による感染症で、心臓にも炎症を起こしていた。

       Last Concert at Carnegie Hall
       メンデルスゾーンイタリア交響曲などを演奏した最後の演奏会プログラム

当時はこの病気の治療に有効なペニシリンは発見されておらず(発見は1929年)、最早手の施しようがなかったらしい。回復の見込みがない事を悟ったマーラーは、ウィーンに帰って最愛の長女マリア・アンナが眠る墓地に葬られる事を望み、オーストリアに帰国する。

アルマは不眠不休でマーラーの看病に当たっていたようだが、この頃は夫婦仲は完全に破綻していて、看病のつらさをグロピウスに宛てた恋文の中で綴ったりしている。

4月8日にニューヨークを発ち、パリを経由して5月12日にウィーンに到着したマーラーは、6日後の5月18日、嵐の中で息を引き取った。享年50歳。7月7日には51歳になるはずだった。アルマによれば、最後に発した言葉は「モーツァルト!」だったという。

       Mahler Burial by Schoenberg
       5月22日に行われた葬儀に参列した作曲家シェーンベルクによる絵

【交響曲第10番 嬰へ長調】

マーラーが最後の交響曲となるこの曲の作曲に着手したのが、1910年の夏、アルマとの深刻な亀裂が生じていた時期だった。

結局、翌年にマーラーが死去したためにこの曲は未完に終わり、構想されていた全5楽章のうち、最初の2楽章はかろうじて総譜の草稿が残されたものの、第3楽章の最初の30小節まででその総譜も終わり、残りはパルティチェル(簡易スコア)の状態で終わってしまった。

しかもこの遺稿を託されたアルマが十数年以上も公表しなかったため、その存在自体は当初知られていなかった。

その理由は、作曲当時のマーラーアルマの関係を伺わせるようなマーラーの書き込みが随所に残されていたからのようだ。

結局、マーラーの作品への名声が高まりつつあった1923年になってアルマもこの草稿を公表する気になり、娘のアンネ・ユスティーネの二度目の夫である作曲家、エルンスト・クシェネクに第1・3楽章の演奏譜作成を依頼し、1924年にフランツ・シャルクの指揮でウィーンにて初演が行われた。

これによってその存在が広く知られる事になり、マーラーの弟子だったブルーノ・ワルターらの反対派もいたものの、その後様々な音楽学者により補筆が試みられる事になった。

国際マーラー協会マーラーの全作品の出版にあたって、この曲については、第1楽章アダージョしか出版していないが、近年では、残された草稿の完成度の高さから、補筆の試みについては肯定的な評価が主流になってきているようだ。補筆完成を行った一人で、イギリスの音楽学者デリク・クックの言葉がその事を物語っている: 

「スケッチとしてはすっかり完成した作品で、パルティチェルも明らかにオーケストラ的な発想の下で作曲されていたので、曲にふさわしい楽器法をいちいち考える必要もないほどだった」

各種ある補筆完成版の中では、このクックによるもの(最終版は没後の89年に出版された第3稿第2版)の評価が一番高いようで、CDも一番多く出ており、ニューヨーク・フィルも来月の定期演奏会で、ダニエル・ハーディング指揮により、このクック版での全曲演奏を予定している。

これ以外には、1982年に出版されたアメリカの音楽学者、クリントン・カーペンターによるものや同じくアメリカのレモ・マゼッティによるものが知られている。

曲は、演奏時間3分半ほどと短い第3楽章を中心とした対照的な5楽章構成。第9番で見せた前衛性をさらに推し進めたかのような、アダージョの第1楽章で始まり、主部で小節ごとに拍子が変わるこれまた革新的なスケルツォの第2楽章「ブルガトリオ(煉獄)」と題された短い第3楽章、力強く激情的なスケルツォの第4楽章、さらに休みなしで、感動的な第5楽章へと続く。

私はクック版でしか補筆完成版を聴いたことがないが、マーラーの最高傑作である第9交響曲をさらに推し進めたかのようなこの曲の全貌を知る事が出来るという意味で、存在意義は極めて高いと思う。他人の手が入っているという違和感も感じさせない。

私の手元にある補筆完成版のCDは1枚のみで、あとは第1楽章のアダージョのみを演奏したCDが3点。

(第1楽章のみ)

① アバド/ウィーン・フィル (85年録音)
② インバル/フランクフルト放送響 (86年録音)
③ ティルソン・トーマス/サンフランシスコ響 (06年録音)


第1楽章の完成度が高いので、これだけ聴いても聴き応えがあり、かついずれの演奏も素晴らしいのだが、やはり1回全曲盤を聴いてしまうと、ちょっと物足りない感じ。

(全曲盤)

① ラトル/ベルリン・フィル (99年録音)


クック版を採用しているが、素晴らしい演奏でこの曲の真価を良く伝えていると思う。

⇒ ラトル/ベルリン・フィル盤 Rattle BPO

この他にも、クック版より饒舌だというカーペンター版(デヴィッド・ジンマンによるCDがある)マゼッティ版(スラットキンによるCDがある)などがあるが、未聴。いずれ機会を見つけて聴いてみたい。
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没後100周年: マーラーの生涯をたどって ~ 交響曲第9番

ニューヨークでの生活が気に入ったマーラー夫妻は、1908年の夏休みをチロル地方トーブラッハ村で過ごした後(ここで交響曲「大地の歌」を完成させている)、メトの2年目のシーズンを迎えるために、ニューヨークに戻ってきた。

実はメトでは、マーラーを招聘した総支配人、ハインリヒ・コンリートが07~08年のシーズンで退任していて、総監督就任を打診されたマーラーがそれを断った結果、ミラノ・スカラ座の総支配人だったジューリオ・ガッティ=カザッツァが新支配人に任命されていた。

彼はアルトゥーロ・トスカニーニイタリアから招聘したために、マーラーの立場が微妙なものになってしまった。自分が振るつもりだったワーグナーの作品などをトスカニーニに取られ、結局、このシーズンのマーラーは、7演目を振っただけで、トスカニーニメトの指揮を託し、4年契約の半ばでメトを去ることにした。

     Toscanini_20111030105735.jpg
     トスカニーニ

ところが、捨てる神あれば拾う神ありで、メトでのマーラーによる「フィデリオ」の演奏に感激したニューヨークの上流階級の人々が、当時赤字に苦しんでいたニューヨーク・フィルに10万ドルもの大金を寄付する代わりに、マーラーを常任指揮者に任命するように働きかけたのだった。

       Mahler 1909
       1909年頃のマーラー

長らく活動の中心だったオペラの仕事は「地獄の生活」で、「コンサート・オーケストラの指揮こそ、生涯の夢」と語っていたマーラーはこうして、1909年3月にニューヨーク・フィルの常任指揮者に任命される

     Carnegie Hall circa 1900
     当時ニューヨーク・フィルが本拠地にしていたカーネギー・ホール

こうして2年目のニューヨーク生活も、結果的には成功に終わり、1909年の夏、マーラー一家はウィーンに帰って行った。


【交響曲第9番ニ長調】

1909年の音楽シーズンも終わり、ニューヨークからウィーンに戻って来たマーラーは、夏休みをチロル渓谷トーブラッハ村で過ごした。ここで作曲に取りかかったのが、前作「大地の歌」に続く10番目の交響曲だった。

     Composing Hut in Toblach
     マーラーがトーブラッハに建てた作曲小屋

「大地の歌」には番号が付けられなかったため、交響曲第9番となったこの曲は、オラトリオ風の交響曲第8番や、オーケストラを伴った歌曲のような体裁を取っていた前作とは違って、交響曲第7番以来、彼としては久々の純粋器楽曲となった。

この曲は「死の恐怖」に取りつかれていたマーラーが最後に完成させた曲という事が良く語られるが、当時のマーラーは、心臓病を宣告(誤診だったようだが)されていた事はあるものの、ニューヨークでの音楽活動が物語るように、常人が及びもつかないほど精力的に活動していたので、死を前にした作曲家の作品という見方は当てはまらないようだ。

むしろ、世紀末を迎えていた当時のウィーンの文化社会に広がっていた「死」というものに対するオブセッションみたいなもの(クリムトの絵画などを見てもそれが伺われる)に対して、マーラーなりに向き合った結果をこの作品に反映させた、という方が正しいようだ。

通常の四管編成による4楽章の交響曲という、一見従来の交響曲の形式に戻っているように見えながら、両端に緩徐楽章を配置するなど、古典派以来重視されてきた全体の構築性よりも、歌謡性・感情表現を優先させている事がはっきり表れている。ソナタ形式の名残りはほとんど残っておらず、常に主題が発展し続けるような革新的な第1楽章から、「死の舞踏」といった雰囲気が感じられるレントラー形式の第2楽章、「極めて反抗的に」と記された暴力的なロンド・ブルレスケの第3楽章を経て、深い感情表現が盛り込まれていて、最後は呼吸が停止するように音が消えて行きながら終わるアダージョの第4楽章まで、まさにマーラーの最高傑作というのにふさわしい作品。

特に第4楽章は、いつ、どこで聴いても圧倒的な感動を覚える曲となっている。

手元にあったCDは以下の7種:

① バーンスタイン/ベルリン・フィル (79年録音)
② カラヤン/ベルリン・フィル (82年録音)
③ バーンスタイン/アムステルダム・コンセルトヘボウ管 (85年録音)
④ インバル/フランクフルト放送響 (86年録音)
⑤ アバド/ウィーン・フィル (88年録音)
⑥ シャイー/アムステルダム・コンセルトヘボウ管
⑦ ティルソン・トーマス/サンフランシスコ響 (04年録音)


伝説のライブと言われる、バーンスタインが生涯ただ1回ベルリン・フィルを指揮した演奏は、ダイナミクスの振幅の大きい、熱気に満ち溢れた演奏で、カラヤンとの黄金時代の頂点にあったベルリン・フィルの合奏力も素晴らしい。但し、バーンスタインのものでは、後年、マーラーとゆかりの深いアムステルダム・コンセルトヘボウ管を振った、さらに振幅が激しくなった演奏の方が好き。

⇒ バーンスタイン/コンセルトヘボウ盤 Bernstein ACO 85

同じベルリン・フィルでも、カラヤンの演奏は、レガートを多用した流麗な表現で、バーンスタインのものとはかなり違った演奏だが、当時のカラヤンとしては珍しいライブ録音で、79年のスタジオ録音に較べ、ライブならではの熱気も感じられる。特に4楽章は限りなく美しい。

アバドインバルのものは、この曲の素晴らしさを過不足なく表現した演奏で、特にアバド盤ウィーン・フィルの艶やかな音が魅力的。

シャイー盤はテンポをゆっくりと取った大柄な演奏。SACD盤の録音が素晴らしく良い。

トーマス盤もゆったりとしたテンポの演奏だが、このコンビによるマーラー・シリーズに共通の、細部のニュアンスとスケールの大きさが高次元でバランスした素晴らしい演奏!SACDの録音も素晴らしい。

⇒ トーマス盤 Thomas SFSO 04

というわけで、個人的な好みでは、バーンスタイン/コンセルトヘボウ盤とトーマス盤がベスト

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没後100周年: マーラーの生涯をたどって ~ 交響曲「大地の歌」

1908年1月、マーラーワーグナー「トリスタンとイゾルデ」でメトへのデビューを果たした。

     Metropolitan Operahouse
     当時のメトロポリタン歌劇場

舞台はまだまだ古色蒼然たるものであったものの、すでにこの頃から、メトには一流の歌手が集まっていて、彼は「トリスタン」のほか、「フィデリオ」「ドン・ジョヴァンニ」「ワルキューレ」「ジークフリート」に登場、素晴らしい音楽を披露して聴衆を魅了した。

     Mahler.jpg

メトでのマーラーは、(誤診だった)心臓病の発作を恐れてか、あまり怒らなくなり、ウィーンでの「暴君」伝説を聞いて身構えていた楽団員は拍子抜けするほどであった。また、マーラーニューヨークでの社交界でも注目の的で、とりわけ美人で知的なアルマは一躍社交界の寵児となった。

ニューヨークでの音楽活動を順調に開始出来たおかげで、マーラーは前年に受けた大きな打撃から立ち直りつつあった。前年から開始していた交響曲「大地の歌」もこの年には完成し、続いて、彼の交響曲の総決算ともいうべき、第9交響曲の作曲に取りかかるのであった。

【交響曲「大地の歌」】

マーラーの9番目の交響曲であるが、通し番号を持っていないこの曲、最近までベートーヴェンブルックナーが9曲までしか交響曲を書けなかった事から自分も死ぬ事を恐れたマーラーが番号を付けなかったという妻・アルマの証言が良く知られていたが、実際のところは、あまりその事を意識していた訳ではなく、もともとオーケストラ伴奏付きの歌曲として構想が進められて事が番号が付けられなかった理由のようだ。確かに、モーツァルト(41曲)やハイドン(104曲)らの例もあるにも関わらず、ベートーヴェンブルックナーの例だけをもってして、マーラーが9番目の交響曲に番号を付けるのをためらったと考えるのは不自然な気がする。

作曲過程にしても、彼の交響曲の作曲の仕方は、夏休み中に簡易スコアを完成させ、オペラ・シーズン中にフルスコアを仕上げるという過程を取っていたのに対して、本作は彼の歌曲と同じく、ピアノ伴奏譜を完成させてから、オーケストレーションを行うという過程を取っていて、その事からも当初は交響曲として構想された訳ではない事が伺われる。

この曲は、周知の通り、中国の詩をもとに作曲されている事から、東洋的な厭世感や無の境地を表わした音楽と評される事が多いが、素材として使ったのは、ハンス・ハイルマンによる中国の詩のドイツ語訳集「中国抒情詩集」を対象に、ハンス・ベートゲがヨーロッパの読者に受け入れられやすいように、ヨーロッパ風の叙事詩に作り替えたいわば創作詩集である「シナの笛」をベースに、マーラー自身がかなり自由に作り替えた詩である事に留意する必要がある。

いってみれば、当時のヨーロッパ人が抱いていた東洋観に触発されて作曲された西洋人マーラーのオリジナル作品といった方が正しいようだ。

ただ、そうして出来あがった作品は、交響曲と歌曲という、異なるジャンルを総合した、しかもマーラー独自の美感に溢れた素晴らしい作品に仕上がっている。

手元にあったCDはこの7枚:

① カラヤン/ベルリン・フィル、ルートヴィヒ(A)・コロ(T) (74年録音)
② テンシュテット/ロンドン・フィル、バルツァ(MS)・ケーニッヒ(T) (82~4年録音)
③ ジュリーニ/ベルリン・フィル、ファスベンダー(A)・アライサ(T) (84年録音)
④ ベルティーニ/ケルン放送響、リポブシェク(MS)・ヘップナー(T) (91年録音)
⑤ シノーポリ/ドレスデン・シュターツカペレ、ヴェルミリオン(A)・ルイス(T) (96年録音)
⑥ ブーレーズ/ウイーン・フィル、ウルマーナ(MS)・シャーデ(T) (99年録音)
⑦ ティルソン・トーマス/サンフランシスコ響、スケルトン(T)・ハンプソン(Br) (07録音)


アルトとテノールの組み合わせで演奏される事の多いこの曲だが、トーマス盤はテノールとバリトンの組み合わせで演奏。演奏自体は精彩に溢れた素晴らしいものだが、女声が加わった方が、曲間のコントラストがついて個人的には好み。

カラヤン盤は相変わらず、古典・ロマン派の延長線上でこの曲を捉えた演奏で、ちょっと整理され過ぎたような印象。

残りの5枚はいずれも素晴らしい演奏で甲乙つけ難いが、強いていえば、独唱が素晴らしいベルティーニ盤でしょうか。これは来日した時のサントリー・ホールでのライブ録音。私は別のマーラー・プログラムを聴いたが、この時演奏された交響曲第1番も素晴らしかった!

⇒ ベルティーニ盤 Bertini_20110926065538.jpg こちらは全集版。単独盤は廃盤のようです... 

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没後100周年: マーラーの生涯をたどって ~ 交響曲第8番

順風そのものに見えたマーラーの生活に、第6交響曲の最終楽章のようにハンマーの打撃が加わった。最初の打撃は、ウィーン宮廷歌劇場の音楽監督職の辞任だった。マーラーは自作の指揮のため、ウィーンを留守にして演奏旅行に出る事が度々あったが、これが音楽監督職をおろそかにしているという評判につながった。

     Vienna State Opera
      現在のウィーン国立歌劇場

1907年1月に続いて、3月にも自作指揮のための休暇願いを出したマーラーは、劇場側から難色を示されると辞任を申し出、これが受理されてしまう。彼は取り敢えず、ニューヨークのメトロポリタン歌劇場と1908年1月から3ヶ月間、指揮を行う契約を結ぶことにする。契約条件は3カ月で7万5千クローネと、旅費・滞在費の全額劇場側負担という内容で、現在の価値に換算するとおよそ1億円にものぼろうかという破格の条件だった。

     Metropolitan Opera House circa 1900
     当時のメトロポリタン歌劇場

第2の打撃は、最愛の長女、マリア・アンナの突然の病死だった。1908年6月にアルマと二人の娘は、一家の夏の避暑地であるマイアーニックで、一足先に着いていたマーラーと合流したが、そこでマリア・アンナは、妹のアンナ・ユスティーネからうつった猩紅熱に加え、ジフテリアも併発してしまい、危篤の状態に陥った。

        Maria Anna Mahler

必死の看病もむなしく、マリア・アンナは4歳8カ月の短い生涯を閉じたが、マーラーは自分にそっくりだった長女を人一倍可愛がっていた(アルマさえ入れなかった作曲小屋に入る事を許された唯一の人間だった)だけに、受けたショックは途方もないものだった。

この不幸に追い打ちをかけるように、マーラー自身にも、心臓障害の診断が下され、一切の運動を禁じられてしまう。後年、当時の診断は誤診だった事が明らかになってきていて、当時のマーラーは肉体的には健康体だったようだが、この誤診がマーラーに与えた心理的影響は甚大だった...

     Mahler in 1907
     1907年当時のマーラー

【交響曲第8番 変ホ長調】

マーラーが自身8番目となる交響曲の作曲に着手したのは、1906年夏のこと。精霊降誕節の賛歌から霊感を得た彼は、声楽と器楽が緊密に結びついたオラトリオのような交響曲の作曲を構想した。

当初は伝統的な4楽章構成で計画されたこの交響曲、純粋器楽の中間2楽章(アダージョ、スケルツォ)は構想段階で破棄され、ラテン語による降誕節賛歌、「来たれ、創造主なる霊よ」を用いた第1部と、ゲーテ「ファウスト」の終幕を用いたドイツ語による第2部からなる構成とした。

6月に始めたこの曲の作曲は9月頃には終わり、ウィーンのオペラ・シーズンが開幕した後からオーケストレーションが行われ、初演は翌年9月12日、ミュンヘンにて作曲者自身が指揮するミュンヘン・フィルの演奏で行われた。

初演時の出演者はオーケストラ170名に、合唱は何と850名、これに独唱者8名などが加わり、総勢1030人。初演時の興行主、エミール・グートマンが、この壮大な規模から、「一千人の交響曲」という名前を付けたのが、今でもこの曲の通称として使われている。

     Mahler Symphony No. 8 by Gergiev
     巨大な編成を必要する曲。写真はゲルギエフ指揮のマリインスキー劇場管

マーラー自身はこの曲の出来映えにかなり自身を持っていたようで、それまで作曲した交響曲はこの曲への「序曲」に過ぎない、とまで述べている。初演もこの曲が持つ祝祭的な性格が聴衆に受けたのか、マーラーの作品としては珍しく大成功に終わっている。

交響曲という枠組みを極限まで押し広げたかのような巨大なスケールで展開されるこの曲では、現世的な愛から永遠不滅の愛へと昇華していくさまが描かれている。

手元にあったCDはこの4枚:

① ショルティ/シカゴ響 (71年録音)
② インバル/フランクフルト放送響 (86年録音)
③ ブーレーズ/ベルリン・シュターツカペレ (07年録音)
④ トーマス/サンフランシスコ響 (08年録音)


古典的名盤といわれるショルティの演奏は、この指揮者らしい、きびきびしたテンポで運ばれるダイナミックでスケールの大きな演奏。ルチア・ポップルネ・コロらの独唱も素晴らしい。

 ⇒ ショルティ盤 Solti 71

インバルは良く整理されたすっきりとした演奏だが、今のインバルなら、より濃い演奏が出来るのではないかと思う。最近、都響を振ったライブ録音が出されている。

ブーレーズは相変わらず、細部をおろそかにせず、かつスケールの大きさにも不足しない演奏。

トーマスは、スケールの大きさと旋律の柔らかい歌わせ方、細部への気配りが徹底された演奏で、相変わらず録音も素晴らしい。

        ⇒ トーマス盤 Thomas 08

というわけで、この曲についてもトーマス盤がトップ対抗はショルティ盤といったところでしょうか。

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没後100周年: マーラーの生涯をたどって ~ 交響曲第7番

アルマと結婚後、1902年に長女マリア・アンナ、1904年には次女アンナ・ユスティーネが生まれ、音楽監督を務めるウィーン国立歌劇場では次々と意欲的な上演を行うなど、マーラーは公私ともに絶頂期にあった。

     Mahler family
     1905年頃のマーラー一家

歌劇場の音楽監督としては、画期的だった「トリスタンとイゾルデ」の上演で起用したウィーン分離派の画家、アルフレート・ロラーを正式に歌劇場の美術・装置主任に迎え、ベートーヴェンの「フィデリオ」や、モーツァルト生誕150周年の記念として新制作されたダ・ポンテ3部作など、次々と意欲的な上演を実現させていく。この頃は、音楽の持つドラマを最大限に生かすべく、マーラーは音楽に様々な改変を行ったりもしているようだ。「フィデリオ」の途中に「レオノーレ序曲第3番」を挟むという事も、この頃から始まった。

「ドン・ジョヴァンニ」の上演では、マーラーの弟子のような存在だった後の大指揮者、ブルーノ・ワルターを、「彼はモーツァルトの音楽を、偽りの優雅さやアカデミックな無味乾燥さから解放し、ドラマティックな真剣さ、真実味を持ち込んだ」として感激させたりしている。

     Bruno Walter
     ブルーノ・ワルター (1876~1962年)

ウィーンでは受け入れられなかった自作の演奏も、当時知りあったアムステルダム・コンセルトヘポウ管の音楽監督、ウィレム・メンゲルベルクの熱心な擁護により、彼の交響曲が次々とアムステルダムで演奏された。

     Willem Mengelberg
     マーラーを得意とした名指揮者、メンゲルベルク(1871~1951年)

ところが、ほどなくして、このように充実していた生活を送っていたマーラーの行く手に、突如暗雲が立ち込める事になる。

【交響曲第7番 ホ短調】

相変わらず「夏休み作曲家」の生活を送っていたマーラー、1904年に6番目の交響曲を完成させたのと並行して、次の交響曲の作曲にも取りかかり、この年には第2,4楽章を作曲し、翌年夏には残りの3楽章を4週間かけて完成させている。

以前より作曲のスピードが増したようだが、これは、結婚したアルマの助けがあった事も大きいようである。

この頃の仕事の進め方としては、夏休みの間は曲のスケッチだけを完成させておき、オペラ・シーズンが始まると、指揮の合間をぬって、フル・スコアに仕上げるといったもので、アルマが出来あがった草稿を片っ端から清書していったために、能率が飛躍的に上がったという事らしい。

さて、この交響曲第7番、作曲者自身が、最初に完成された2、4楽章に「ナハト・ムジーク(夜曲)」というタイトルを付けたために、「夜の歌」という通称で呼ばれる事も多いが、マーラー自身がこの曲をそのように呼んだ事はない上に、他の楽章も夜曲という感じではないために、この名前はあまり適切ではないようだ。

第6交響曲に引き続いて、この曲でも、テノール・ホルンマンドリンギターなどの珍しい楽器が加えられており、響きのバランスを取るのが難しかったのか、1908年にプラハで作曲者自身の指揮で初演された際、12日間にわたるリハーサル期間中、毎日楽譜をホテルに持ち帰っては手直しを加え続けていたという。

     Otto Klemperer
     初演に立ち会った名指揮者、オットー・クレンペラー(1885~1973年)

テノール・ホルンが印象的な音色で第1主題を奏でる第1楽章は、主部がホ短調であるために、曲自体もホ短調という事になっているが、全体を通して様々な調の間で揺れ動くため、全体の調性ははっきりとしない。そのせいか、マーラーの交響曲としては初めて、総譜にも全曲の調性が記されていない。行進曲風のリズムに彩られる楽章であるが、緊迫感に満ち溢れていた前作の第1楽章に較べ、同じ行進曲でもより明るい気分を感じさせる。

「ナハト・ムジーク」の名前が付けられたセレナード風の第2、4楽章の間に、幽霊が飛び交うような雰囲気を漂わせる独特なスケルツォ楽章である第3楽章がはさまり、壮大だが、あくまで明るい最終楽章に流れて行く。明るいといっても、たとえばベートーヴェンのシンフォニーのように、悲劇的な第1楽章から歓喜の第4楽章へ、というような一貫性は最早感じられず、どこか空虚な響きが漂うように感じさせるのが、世紀末を生きたマーラーらしい。

1980年代以降巻き起こったマーラー・ブームの中でも、そのとりとめのなさ?から、一番演奏される機会が少なかった第7番だが(事実、私もこれまであまり聴いた事がありません)、最近では、20世紀の音楽への橋渡し(確固たる調性感や形式感を放棄した)をした音楽として、とみに評価が高まっている。

さて、手元にあったCDは以下の4枚:

① アバド/シカゴ響 (84年録音)
② ブーレーズ/クリーヴランド管 (94年録音)
③ ティルソン・トーマス/サンフランシスコ響 (05年録音)
④ ジンマン/チューリッヒ・トーンハレ管 (08年録音)


いずれも素晴らしい演奏だと思うが、細部にわたり明晰で、特異な楽器編成から来る響きの面白さを良く出し、スケールの大きさも両立させたトーマスジンマンのCDが良いように思う。両盤ともSACDハイブリッドのマルチ・チャンネル録音で、録音も素晴らしい。

両者の中では、演奏により勢いのあるトーマス盤がベストでしょうか。

⇒ トーマス盤 Mahler 7 Thomas

       ⇒ ジンマン盤 Mahler 7 Zinman

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