生誕200周年記念! ワーグナーの生涯をたどって: その9 〜 終焉の地ヴェネツィアへ

最後の作となる「パルジファル」作曲に手を染め始めた頃から健康状態が優れなくなっていたワーグナーは、1880年に入って気候温暖なイタリアへ行くことを決め、ナポリヴェネツィアに滞在する。

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 ナポリ

10月にミュンヘンに戻ったワーグナーは、ルートヴィヒ2世のための御前演奏会で指揮をして、パルジファルの前奏曲を披露する。曲を気に入った国王が演奏を繰り返すよう求め、さらにはローエングリンの前奏曲も演奏するよう求めると、ワーグナーは気を悪くして帰ってしまう。これがワーグナールートヴィヒ2世との最後の対面となってしまった。

 Ludwig II

不安定な健康状態のため、完成が遅れていた「パルジファル」だが、1882年1月にようやく完成する。この直後には印象派の画家ルノワールワーグナーを訪ね、かれの肖像画を描いている。

      Wagner by Renoir

パルジファルは1882年7月に、第2回バイロイト音楽祭で初演された。この頃には一段と人嫌いになっていたルートヴィヒ2世をはじめ、ニーチェビューローらかっての盟友の多くが姿を見せなかったものの、リストブルックナーサン・サーンスらが駆け付け、上演は圧倒的な成功を収めた。

 Parsifal Bayreuth 1882

パルジファルの成功で翌年以降の音楽祭の継続開催に目処が立ち、安心したワーグナーは、家族とともにヴェネツィアに戻る。健康状態からもはや大作を手掛ける事は出来ないと悟っていた彼は、若い頃の作品、交響曲ハ長調に手を加え、1882年のクリスマスイブに、自らの指揮でフェニーチェ劇場で再演する。これがワーグナーの最後の指揮となった。

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翌年に入り、急速に健康状態が衰えていったワーグナーは、2月13日に心臓発作を起こし、息を引き取る。享年69歳、遺体はバイロイトの自邸の裏庭に葬られた。同時代を生きたもう一人のオペラの巨人、ジュゼッペ・ヴェルディとはついに一度も会うことはなかった。

 Wagners Grave

舞台祝祭劇「ニーベルングの指環」~第三夜「神々の黄昏」
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ワーグナー: 「神々の黄昏」
ブリュンヒルデ: ヒルデガルト・ベーレンス (S)
ジークフリート: ジークフリート・イェルサレム (T)
ハーゲン: マッティ・サルミネン (Bs)
ギュンター: アンソニー・ラッフェル (T)
ワルトラウテ: クリスタ・ルートヴィヒ (A) ほか
ジェームズ・レヴァイン指揮 メトロポリタン歌劇場管弦楽団・同合唱団
1990年録音(ライブ)


リング4部作の完結編にして最大の大作である「神々の黄昏」。26年をかけて完成させたリングの最後を飾る作品にふさわしく、どこをとっても充実した音楽で、「ジークフリートのラインへの旅」から「ジークフリートの葬送行進曲」、そして長大な「ブリュンヒルデの自己犠牲」で締めくくられる壮大なフィナーレに至るまで、聴きどころ満載!

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 名高いパトリス・シェローの演出によるバイロイトの舞台

オットー・シェンクの手による、メトの前のリングの上演は、この長大な作品を分かりやすく再現したもので、当時の一流の歌手陣による名唱を、レヴァインのダイナミックで充実した音楽が万全にサポートしている。それにしても長い!

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ジャンル : 音楽

生誕200周年記念! ワーグナーの生涯をたどって: その8 〜 バイロイト

1871年11月、ワーグナーバイエルン王国北部にあるバイロイト郊外の丘に、長年の念願であった祝祭劇場建設の許可を取得し、様々な障害はあったものの、1872年4月には、ついに建設が始まる。

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 バイロイト祝祭劇場

建設開始と同時に一家と共にバイロイトに移住したワーグナーは、自身の59歳の誕生日に行われた起工式に立ち会った後、コージマの提案により開かれた記念演奏会でタクトを取り、ベートーヴェンの第九を演奏した。バイロイト音楽祭第九を演奏する習慣は、毎年ではないものの、今に至るまで続いていて、古くは世紀の名演と言われる1951年のフルトヴェングラーの演奏などが有名である。

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 フルトヴェングラー

劇場の設計は、盟友のゼンパーとこの頃仲違いしていたため、宮廷建築家のヴィルヘルム・ノイマンが担当したが、この劇場の特徴である、古代ギリシャ劇場に倣った扇形の客席や、舞台下に潜り込んだオーケストラ・ピットなどはワーグナーの発案であった。建物は1873年8月に完成したが、費用の大部分はルートヴィヒ2世の援助に頼り、予算に制約があったため、ワーグナーがこだわった舞台周りの設計を除いては、建物自体も、フォワイエも簡素なものだった。

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 祝祭劇場内部

1873年9月には、ブルックナーが自作の交響曲第3番の楽譜を携えてワーグナーを訪ねてくる。楽譜を見たワーグナーはこれを気に入り、後にブルックナーベートーヴェン以降最大の交響曲作曲家と呼ぶようになる。この曲はワーグナーに献呈されて、ワーグナー交響曲と呼ばれるようになる。

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 ブルックナー

ワーグナーが心血を注いだ「ニーベルングの指環」は、1874年11月に遂に完成する。作曲を開始してから実に26年もの歳月が経っていた。バイロイトでの初演は1876年8月。オーケストラのメンバーはドイツ各地から集結した混成メンバーで、この音楽祭のためだけにオーケストラを編成する伝統は今に至るまで続いている。

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 舞台上の祝祭オーケストラ
 
ルートヴィヒ2世はもちろん、ドイツ皇帝ヴィルヘルム1世ブラジル皇帝ドン・ペドロ2世をはじめとする各国国王や、リストブルックナーチャイコフスキーら大作曲家も列席した公演は大成功となった。しかし上演の水準は褒められたものではなく、ワーグナーもかなり落胆したようで、周囲の友人たちも彼が気を取り直すよう、かなり励ましたようだ。

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 初演時の舞台

1877年には、バイロイトでの初演を見て感激したライプツィヒ歌劇場の音楽監督アンジェロ・ノイマンの奔走によってライプツィヒでの上演が実現するが、これはなかなかの水準であったことが伝わっている。ミュンヘンでは翌1878年に、ルートヴィヒ2世のためだけのプライヴェート上演という形で公演が行われた。しかし肝心のバイロイトでは、初演が大赤字に終わったせいもあって、再演の目処が立たない状況が続いていた。

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 ライプツィヒ歌劇場

そのような中、度重なる心臓発作に見舞われ、健康状態が悪化していた64歳のワーグナーは、最後の大作となる「パルジファル」の作曲に取りかかったのだった。

楽劇「ニュルンベルクのマイスタージンガー」
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ワーグナー: 楽劇「ニュルンベルクのマイスタージンガー」
ハンス・ザックス: ディートリッヒ・フィッシャー=ディースカウ (Br)
ベックメッサー: ローラント・ヘルマン (Br)
ヴァルター: プラシド・ドミンゴ (T)
エヴァ: リゲンツァ (S) ほか
オイゲン・ヨッフム指揮ベルリン・ドイツ・オペラ管弦楽団・同合唱団
1976年録音


1867年10月に完成したワーグナー 円熟期のこのオペラは、彼の他の作品とは大きく異なり、健康的な活力に満ち溢れた異色の喜劇作品。中世のニュルンベルクを舞台としたこの作品、喜劇とはいっても、そこはワーグナー、彼の他の作品同様、長大で重厚な作品に仕上がっている。

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 2010年のバイロイト音楽祭での舞台

オペラを通じて、主人公で、16世紀のニュルンベルクに実在したというハンス・ザックス、若者ヴァルターの人間的成長も織り込まれているこの作品、それぞれに美しく充実した音楽が与えられており、円熟期のワーグナーの音楽を心ゆくまで堪能することが出来る。

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 メトの舞台

また、狂言回し的な役を演じるベックメッサーを通じて、当時の代表的な音楽批評家で、反ワーグナー派のドンとみなされていたハンスリックを徹底的に揶揄しているのも特徴だが、当のハンスリックはこの作品について意外に冷静な評価を下していたと伝えられる。

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 ウィーン国立歌劇場の舞台

オイゲン・ヨッフムベルリン・ドイツ・オペラとともに1976年に録音したCDは、ザックスにドイツ・リートの巨匠フィッシャー=ディースカウを起用している他、プラシド・ドミンゴなど異色のキャスティングで話題を呼んだ録音だが、オーケストラの重厚な響きは比類なく、素晴らしい演奏となっている。

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生誕200周年記念! ワーグナーの生涯をたどって: その7 〜 バイエルン国王 ルートヴィヒ二世

1864年3月に父王のマクシミリアン二世の後を継いだ弱冠18歳のルートヴィヒ二世。1863年に出版された「ニーベルングの指輪」の序文でワーグナーが、「この作品の上演を実現してくれる君主が果たして現れるだろうか」と締めくくったのを読んで、これを自分の使命と考えるようになっていた。

 Ludwig II

バイエルン国王になって最初に行ったのが、借金取りの追及を逃れて姿をくらましていたワーグナーを探し出す事で、ワーグナーの前にプフィスターマイスターが現れたのもこのためであった。

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      1867年頃のワーグナー

バイエルン国王という強力なスポンサーを得たワーグナーは、早速ベルリンにいたハンス・フォン・ビューロー夫妻の一家をミュンヘンに呼び寄せ、「ニーベルングの指輪」の作曲を再開させる。ビューローの妻コージマは、程なくしてワーグナーの子供を身籠ることになる…

      Cosima von Bulow
      コージマ・フォン・ビューロー

1865年には、長らく上演の目処が立っていなかった「トリスタンとイゾルデ」の初演がバイエルン宮廷劇場で行われ、ビューローの素晴らしい指揮のおかげもあって、素晴らしい成功を収める。

 Tristan und Isolde
 初演時の主役二人

そのような中、ワーグナーに肩入れする国王への反感も強まり、ルートヴィヒはやむなくワーグナーに対し、国外退去命令を出さざるを得なくなる。
 
コージマとその3人の娘を伴ってスイスに移動したワーグナー、1867年10月には「ニュルンベルクのマイスタージンガー」を完成させる。その間、コージマとの間に次女が生まれ、作曲中だった「マイスタージンガー」にあやかって、エヴァと名付けた (長女はイゾルデと名付けられている)この後、1869年には長男ジークフリートが誕生している。

 Wagner and Cosima

1868年6月にはバイエルン宮廷劇場「マイスタージンガー」の初演が行われ、大成功を収める。続いて中断していた「指輪」の作曲を再開し、71年にはようやく「ジークフリート」を完成させるのだが、4部作の完成を待ちきれなかったルートヴィヒは、ワーグナーの反対を押し切って、「ラインの黄金」「ワルキューレ」の初演を強行する。4部作の一括上演にこだわっていたワーグナーはもちろんつむじを曲げて、バイロイト祝祭劇場での上演に先立つこの記念すべき上演には立ち会わなかった。

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一方、1870年7月には、ついにコージマビューローの離婚が成立し、ワーグナーは彼女と8月にルツェルンで結婚式を挙げた。この当時のワーグナーの幸福な心境を反映した「ジークフリート牧歌」は、この年の12月、コージマの誕生日のために作曲されている。

楽劇「トリスタンとイゾルデ」
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ワーグナー: 楽劇「トリスタンとイゾルデ」
トリスタン: ルネ・コロ (T)
イゾルデ: マーガレット・プライス (S)
マルケ王: クルト・モル (Bs)
クルヴェナール: ディートリッヒ・フィッシャー=ディースカウ (Br) ほか
カルロス・クライバー指揮ドレスデン国立歌劇場管弦楽団・ライプツィヒ放送合唱団
1980~1982年録音


大作「ニーベルングの指輪」の上演の見込みが全く立たないことから、「ジークフリート」の作曲を中断して、作曲した作品。大作上演の難しさを痛感していたワーグナーは、当初小規模で抒情的なオペラの作曲を考えていて、事実ブラジル皇帝の要望に応えて、本作をイタリア語に翻訳してイタリア・オペラとしてリオ・デ・ジャネイロで上演することを検討していたほどだった。

 Rio de Janeiro Opera House

ところが作曲を進めるうちに、構想は膨らみ続けて、結局他の作品に負けず劣らずの大作となってしまった。

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 メトの舞台

作品の長さに反して、少ない登場人物、簡素な舞台のなかで繰り広げられる内容は、ひたすら主人公二人の内面の世界を描き出す内省的なもので、オペラとしては極めて異色なさくひんとなっていて、オペラの枠にとどまらない、まさに楽劇と呼ぶに相応しいもの。

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 バイロイト音楽祭での舞台

内省的とは言っても、指導動機の徹底やトリスタン和声と呼ばれる不協和音・半音進行や無限旋律を多用した独特な響きから生み出される音楽はまさに陶酔の極致。当時のワーグナーマティルデ・ヴェーゼンドンクとの不倫が破局を迎えていた事と、傾倒していたショーペンハウアーの厭世哲学の影響が色濃く滲んでいて、現世では決して成就することのない愛を死によって成就させようとする男女の姿を、他の誰もが成し遂げ得なかった方法で描き出している。

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1974年から76年にかけてバイロイト音楽祭トリスタンを指揮して話題を呼んだカルロス・クライバー。彼の唯一のワーグナーもののスタジオ録音は、1980年から82年にかけてドレスデンで録音されたこのトリスタンで、この音楽に没入し過ぎることなく、精妙な響きで主人公たちの心の動きを繊細に描き出しているのが好ましい。

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生誕200周年記念! ワーグナーの生涯をたどって: その6 〜 流浪の民

チューリヒから去ったワーグナーは、ジュネーブを経由して1858年8月にヴェネツィアに落ち着いた。ワーグナーはしばらく当地にて「トリスタンとイゾルデ」の作曲を進めるが、当時のヴェネツィアオーストリア帝国の支配下にあったため、依然としてお尋ね者の身分であった彼は、逮捕はされなかったものの、警察の監視下に置かれることになる。

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 ヴェネツィア

そうこうするうちに、イタリアで高まった国家統一運動の動きに対処するため、オーストリア軍イタリアに派兵される事態となったため、ワーグナーは情勢が不穏となったヴェネツィアを退去し、1859年3月にスイスルツェルンに移動する。

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 ルツェルン

ここでトリスタンを完成させた彼は、上演の機会を求めて、再びパリに行くことを決意する。パリでは、まず3回にわたって自作の演奏会を開いたが、評判は芳しくなく、トリスタンの上演も到底実現しそうになかった。チューリヒから故郷のドレスデンに帰っていた妻ミンナを呼び寄せたものの、夫婦喧嘩は絶えなかった。そんな中、思いもかけず時の皇帝ナポレオン3世の希望により、「タンホイザー」オペラ座で上演することが決まる。

 Palais Garnier
 パリ・オペラ座

上演の条件である、バレエ音楽の挿入には随分と抵抗したようだが、結局、第1幕のバレエの場面のためにバッカナーレの音楽を新たに作曲し、その他オーケストレーションにも手を加えられた「タンホイザー」(現在ではパリ版として知られている)は、1861年3月に上演されるが、多数のアンチ・ワーグナー派の妨害に遭い、怒号が飛び交う中、公演は3回で中止を余儀無くされる。

 Wagner 1860
 当時のワーグナー

こうした中で、ワーグナー擁護の声を上げたのが、詩人のボードレールマラルメで、作曲家ではグノーサン・サーンスらもワーグナーを支持し、後にワグネリアンと呼ばれる一派を形作っていく。ワグネリアンの流れがドイツではなく、およそドイツ音楽とは対極にあるイメージのフランスから発生したのは興味深い。

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 ボードレール

「タンホイザー」の失敗でショックを受けたワーグナーは、パリを離れ、ウィーンに行くことにし、1861年5月には、ようやく「ローエングリン」の上演に初めて接することが出来た。ドレスデンでの初演から実に13年の月日が経っていた。ウィーンでは、幸運な事に、トリスタンを上演してくれることも決まった。喜んだワーグナーは、勇躍、次作の「ニュルンベルクのマイスタージンガー」の作曲に取りかかる。またこの頃には、恩赦により、ようやく指名手配の身分から解放される。ドレスデンから亡命してから13年もの歳月が経っていた。

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 当時のウィーン国立歌劇場
 
1862年11月には、失敗に終わった故郷ライプチヒでの自作演奏会の後、ドレスデンに立ち寄り、パリ退去時にドレスデンに戻っていたミンナと最後の対面をする。この後二人は再開することなく、ミンナは1866年1月に56歳の生涯を閉じる。

     Minna Planer
     ミンナ

この後、ワーグナーウィーンマイスタージンガーの台本の朗読会を行うが、会に出席していた当時の有力音楽評論家で、ワーグナーに批判的だったユダヤ人のハンスリックは、登場人物の一人、ベックメッサーが自分を揶揄したキャラクターである事を感じ取り(当初の草稿ではは名前もベックメッサーではなく、ファイト・ハンスリッヒというあからさまにあてこすった名前だったようだ)、憤然として途中退席する。この後ブルックナーブラームスをも巻き込む事になる両者の激しい対立の始まりだった。

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膨らむ一方の借金返済のためか、1863年に半年間をかけて、ヨーロッパ各地を精力的に指揮して回ったワーグナーは、ここでリストの娘で、高名な指揮者ハンス・フォン・ビューロー夫人となっていたコージマと運命的な再会をするのであった。この時ワーグナー50歳、二児の母となっていたコージマは26歳だった。

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      コージマ

その後ワーグナーは借金取りから逃げ切れなくなり、ウィーンを夜逃げ同然に逃げ出した。潜伏していたシュトゥットガルトの宿に、一人の老紳士が訪ねて来たのはその時であった。その老紳士の名前は、フランツ・フォン・プフィスターマイスターバイエルン王国の国王付き秘書官であった…

舞台祝祭劇「ニーベルングの指環」~第一夜「ワルキューレ」
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ワーグナー: ワルキューレ

ジークムント: ゲーリー・レイクス (T)
ジークリンデ: ジェシー・ノーマン (S)
ブリュンヒルデ: ヒルデガルト・ベーレンス (S)
ヴォータン: ジェームス・モリス (Bs)
フンディング: クルト・モル (Bs)
フリッカ: クリスタ・ルートヴィヒ (A) ほか
ジェームズ・レヴァイン指揮 メトロポリタン歌劇場管弦楽団・同合唱団
1990年録音(ライブ)


チューリッヒに亡命中の1856年3月に完成された「指環」チクルスの第2弾、ワルキューレ。第1作の「ラインの黄金」に較べ、規模は一段と大きくなり上演時間も正味4時間にも迫ろうかという大作となったが、音楽も一段と充実し、ストーリーの起伏の豊かさも相俟って、4部作中一番人気が高く、上演頻度の高い作品となった。

 Walkure Met
 ロベール・ルパージュ演出のメトの舞台

第1幕のジークムントジークリンデのデュエットや第3幕冒頭の名高い「ワルキューレの騎行」、終結部のヴォータンの告別と魔の炎の音楽など、聞きどころは豊富だが、特に最後の場面でヴォータンが愛娘のブリュンヒルデに別れを告げる場面はとりわけ感動的!

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 スカラ座の舞台

映像では、オットー・シェンクの演出による一世代前のメトのものが、伝統的な演出、充実した歌手陣・オーケストラと3拍子揃った名演だと思う。特に3幕の最後、ベーレンスモリスの演技・歌唱は、一期一会の感動の瞬間だと思う!また1幕に登場するノーマンもさすがのオーラを発っしている。

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 メトのシェンクの舞台

CDでは、名指揮者カール・ベームバイロイト音楽祭に登場した特の実況録音が、いずれも全盛期にある歌手陣の素晴らしい歌唱を堪能する事が出来る!

Ring Bohm
ジークムント: ジェームズ・キング (T)
ジークリンデ: レオニー・リザネク (S)
ブリュンヒルデ: ビルギット・ニルソン (S)
ヴォータン: テオ・アダム (Bs)
フンディング: ゲルト・ニーンシュテット (Bs)
フリッカ: アンネリース・ブルマイスター (A) ほか
カール・ベーム指揮 バイロイト祝祭劇場管弦楽団・同合唱団
1967年録音(ライブ)

 

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生誕200周年記念! ワーグナーの生涯をたどって: その5 〜 亡命生活

他人名義でしかも期限切れのパスポートでもなぜかドイツを出国出来たワーグナー一家は、1849年5月になんとかチューリヒに到着した。

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 19世紀後半のチューリヒ

到着早々、友人たちの協力で正規の旅券を取得したワーグナーは、ローエングリン上演の可能性を探るべく、すぐさまパリへと旅立つが、関心を示す劇場は現れず、7月にはやむなくチューリヒに戻ってくる。

 ワーグナーは、すぐには次作の作曲には取り掛からず、自身の芸術理念を明らかにすべく、矢継ぎ早に著作を発表する。雑誌「音楽新報」で発表した「音楽におけるユダヤ性」では、「他民族の中に寄生するユダヤ人は、借り物の言語しか持たず、真実の芸術表現が出来ない」として、かってワーグナーをまともに取り合わなかったメンデルスゾーンマイアベーアを槍玉にあげたりしている。

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 メンデルスゾーン

こうしたさなか、夫婦仲が冷めてきていたワーグナーは、後援者の一人であるボルドーのワイン商、ロソーの夫人であるジェシーと駆け落ち未遂を起こしたりして、相変わらずその身辺は騒がしかった。

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 当時のワーグナー

パリでのローエングリン上演の目処は立たなかったものの、ワイマールにいたリストが初演してくれる事になり、1850年8月にワイマール宮廷劇場リスト指揮により、遂に初演にこぎ着けることが出来た。初演時は否定的な評価が多かったこの作品は、次第に評価が高まっていき、ドイツ各地で上演されるようになっていった。初演に立ち会えなかったワーグナーは、ドイツ人でローエングリンを聴いていないのは作曲者の自分だけだと嘆いたという。

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ローエングリン上演後程なくして、ワーグナーはいよいよ「ニーベルングの指環」に取りかかる。これは1851年8月に発表した論文「友人たちへの報告」の中で述べていた、従来の歌劇からの決別と全く新しい祝祭劇の創設の構想を実行に移したもので、4部作後半の核心をなす「若きジークフリート」・「ジークフリートの死」に引き続き、「ワルキューレ」・「ラインの黄金」と、1853年2月には四部作の台本を完成させ、早速作曲にも取りかかる。

1854年5月に「ラインの黄金」が完成し、続いて1856年3月には「ワルキューレ」も完成。この間、ロンドンに演奏旅行に出向いたり、「ローエングリン」に感激してワーグナーを訪ねて来た童話作家のアンデルセンと親交を結ぶなど、公私共に充実した日々が続いていたワーグナー、続いて「ジークフリート」の作曲にも取りかかるが、その途中で、これらの作品が上演される見込みが全くない(通常の歌劇場での上演を想定していないため)事から、「僕はジークフリートを森の菩提樹の下に残したまま、涙ながらに別れを告げた」という言葉を残して作曲中断、「トリスタンとイゾルデ」の作曲に力を入れることになる。

そうしたさ中、ワーグナーの熱心な後援者である裕福な絹織物商オットー・ヴェーゼンドンクの屋敷の隣宅を提供されていたワーグナーは、その妻のマティルデと深い仲になってしまう。この恋愛は、「ヴェーゼンドンク歌曲集」を生み出すなど、芸術面では良い効果をもたらしたが、夫の不貞にいち早く気づいた妻のミンナが騒ぎ出し、チューリヒの上流階級の間でスキャンダルとなるに及び、ワーグナーは遂にチューリヒを離れる決意をする。1858年8月の事であった。

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      マティルデ・ヴェーゼンドンク

舞台祝祭劇「ニーベルングの指環」~序夜「ラインの黄金」
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ワーグナー: ラインの黄金
ヴォータン: ジェームス・モリス (Bs)
アルベリヒ: エッケハルト・ヴラシハ (Br)
ローゲ: ジークフリート・イエルサレム (T)
ミーメ: ハインツ・ツェドニク (T)
フリッカ: クリスタ・ルートヴィヒ (A) ほか
ジェームズ・レヴァイン指揮 メトロポリタン歌劇場管弦楽団・同合唱団
1990年録音(ライブ)


ワーグナーの芸術理念の集大成とも言うべき「ニーベルングの指環」は、当初最後の「神々の黄昏」から構想され、最初の「ラインの黄金」へと逆の順番で台本が作り上げていかれた。中世ドイツの叙事詩「ニーベルンゲンの歌」北欧神話を題材にしているが、物語はワーグナーのオリジナル。

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 バイロイト音楽祭の舞台

四部作の最初を飾る「ラインの黄金」は、一幕構成で上演時間も一番短い作品だが、それでも2時間半はかかる大作。劇と音楽の緊密な結びつきを重視しているため、耳に入りやすいメロディや、アリアなどは存在しないが、その分、音楽が物語の展開と結びついて、独特な世界を作り出している。

 La Scala
 スカラ座の舞台

四部作を通じて100以上のライト・モティーフが駆使されて物語に見事な統一感を与えているが、初期の「ラインの黄金」でもこれらが有効に活用されながら、スケールの大きな世界を作り出している。また、短いながら物語は四部作中、一番変化に富んでいるので、指環の世界への入口としてもとっつきやすい。

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 ウィーン国立歌劇場の舞台

こうした作品はやはり、映像があった方が入りやすいが、オットー・シェンク演出のこの メトロポリタン歌劇場のものは、物語の世界をオーソドックスに再現したもので、取っ付きやすい。1980年代後半から90年代に活躍していた第一線の歌手陣を揃えた配役はメトならではの豪華さで、音楽監督レヴァインのダイナミックな音楽作りも見事!

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⇒ メトでの「ラインの黄金」公演感想

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