リヒャルト・シュトラウスの生涯をたどって: その7 〜 晩年

これまで、政治の世界からは離れたところに身を置いていたシュトラウスだが、1933年にナチスが政権を握ってからは、そういう訳にもいかなくなってきた。

  Nazis Parade

1933年3月には、ナチスの脅迫から逃れてウィーンに移ったブルーノ・ワルターのピンチ・ヒッターとして、ベルリン・フィルを指揮したのを皮切りに、8月にはバイロイト音楽祭に、これまたナチス政権に抗議して降板したアルトゥーロ・トスカニーニの代役を務めている。

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この後、政権の広告塔をとしてのシュトラウスの価値を認識した宣伝大臣、ヨーゼフ・ゲッペルスに任命され、ドイツ帝国音楽局総裁に就任する。

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 ゲッベルスシュトラウス

ナチス政権の実態に無頓着だったシュトラウスは、むしろ当時はびこっていた、シュトラウスに言わせれば品のない通俗音楽からドイツ芸術を守ろうという使命感に燃えていた。

 Strauss 1944
 1944年頃のシュトラウス

ところが、ユダヤ人のシュテファン・ツヴァイクの台本によるオペラ「無口な女」の上演をめぐるゴタゴタから、ナチスとの関係も程なく悪化して、1935年7月には音楽局総裁のポストを辞任し、ウィーンで謹慎生活を送る羽目になる。

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ツヴァイク

但し、ここで作曲に費やす時間が出来たせいか、シュトラウスは矢継ぎ早にオペラ「平和の日」「ダフネ」「ダナエの愛」を発表するのだが、才能のある台本作家に恵まれなかったせいか、いずれもシュトラウスを代表するものとはいえない出来に終わった。

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 「ダナエの愛」初演時のシュトラウス

ところが、ツヴァイクが始めた台本を、名指揮者クレメンス・クラウスを引き継いで完成させたシュトラウス最後のオペラ、「カプリッチョ」は、最後を飾るにふさわしい作品となった。戦況が悪化する中の1942年10月にバイエルン国立歌劇場で初演されたこの作品、シュトラウス自身は「生涯最高の作品」と語っていたという。

 Bayerische Staatsoper

次第に敗戦の色が濃くなる中、次に生み出された傑作が弦楽合奏のためのメタモルフォーゼン「23人のソロ弦楽奏者のための習作」という副題の通り、それぞれの奏者に独立したパートを与えたこの異色の作品は管弦楽法の達人シュトラウスの匠の技が最高度に発揮された作品となった。

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 作曲中のシュトラウス

そして、ガルミッシュで迎えた敗戦。再び全財産を失ったシュトラウス一家はスイスモントルーに腰を落ち着ける。名指揮者ウィルヘルム・フルトヴェングラーと共に、ナチス協力者のレッテルを貼られる中、1947年10月には、イギリスの名指揮者トーマス・ビーチャムに招聘されて、ロンドンで生涯最後コンサートの指揮をする。

 Strauss in London
 ロンドンでタクトを握るシュトラウス

健康状態が徐々に衰えていく中、モーツァルトを思わせるような清冷なオーボエ協奏曲ホルン協奏曲、人生の最後を迎えた諦念が色濃く感じられる絶筆となった、「最後の四つの歌」など、キラ星のごとく傑作を生み出し、1949年9月8日に世を去った。85年の生涯であった。

メタモルフォーゼン
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メタモルフォーゼン
ルドルフ・ケンぺ指揮 ドレスデン・シュターツカペレ (1973年 録音)

第二次世界大戦末期、ドイツ敗戦の色が濃くなっていた1945年に作曲された、弦楽合奏のための作品。

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「23人のソロ弦楽奏者のための習作」という副題が付けられている通り、奏者一人一人のパートが独立しているのが大きな特徴で、ドイツ語で変容を意味するメタモルフォーゼンの名の通り、終末部に現れるベートーヴェン英雄交響曲第2楽章「葬送行進曲」の主題に向けて、導入部の主題が様々に変容していく。オーケストレーションの大家であったシュトラウスの技が、23人のソリストを自在に動かして最高度に発揮された、奇跡のような作品。

ルドルフ・ケンペ率いる、シュトラウスともゆかりの深いドレスデン・シュターツカッペレの奏者達の優秀な技量によって、この曲の素晴らしさを余すところなく表現した録音。このコンビによるシュトラウスのオーケストラ曲全集に含まれているが、CD9枚で3,000円を切る値段という信じられない内容。マスタリングされた音質も素晴らしく、シュトラウス好きなら、是非持っていたいCD!

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リヒャルト・シュトラウスの生涯をたどって: その6 〜 マンネリ化を乗り越えて

第一次世界大戦で敗戦国となり、ハプスブルク帝国として維持してきた広大な領土を全て失ってしまったオーストリア、音楽の中心もウィーンからベルリンに移ってしまった。その中で、宮廷歌劇場から国立歌劇場へと衣替えしたウィーンのオペラ・ハウスは、起死回生の策として、1919年3月にベルリンからシュトラウスを招聘する。

 Wiener Staatsoper

ところが、ウィーンにはすでに名指揮者フランツ・シャルクが音楽監督として任命されていて、歌劇場芸術最高監督なるタイトルを与えられたシュトラウスと何かとぶつかる事になる。

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 シュトラウスとシャルク

結局、シュトラウスウィーンでの活動は短命に終わり、1924年4月には喧嘩別れの形で、そのポストを離れる事になる。

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 当時のシュトラウス

第一次世界大戦勃発時にイギリス政府によって財産の大部分を没収されていたシュトラウスは、生活の不安(といっても、一般市民は想像も及ばないような金持ちだったはずだが)を解消させるため、ウィーン時代も頻繁に海外に出稼ぎ旅行に出ていたが、そこである程度生活への不安を払拭させたのか、国立歌劇場辞任後は、しばらく停滞していた作曲活動を再開させる。

 Strauss 1924

まず発表したのは、シュトラウスの60歳の誕生日を記念してウィーンで行われた催しのためのバレエ音楽「泡立ちクリーム」ウィーンの老舗菓子店、デーメルを舞台にしたこの作品は、しかし聴取には全く受けず、シュトラウスを落胆させる事になった。

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この後、「影のない女」以来5年ぶりのオペラとなった「インテルメッツォ」(24年)「エジプトのヘレナ」(28年)などを発表するが、いずれもかっての精彩は作品に見られなかった。そのような中、ホフマンスタールとの最後のコラボレーションとなった33年の「アラベラ」は、盟友の死を悼みながら作曲を進めたせいか、久々にシュトラウスが往年の霊感を取り戻した作品となったのだった。

楽劇「アラベラ」
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楽劇「アラベラ」
アラベラ: リーザ・デラ・カーザ
ズデンカ: ヒルデ・ギューデン
マンドリーカ: ジョージ・ロンドン
ヴァルトナー伯爵: オットー・エーデルマン
マッテオ: アントン・デルモータ
サー・ゲオルク・ショルティ指揮ウィーン・フィル
ウィーン国立歌劇場合唱団(1957年録音)


シュトラウスホフマンスタールのコラボレーションによる最後のオペラ。叙情的喜劇といいう副題がぴったりの美しい作品。大規模な編成のオーケストラの芳醇な響きと室内楽的な繊細さが融合したシュトラウスの円熟した音楽が何よりも素晴らしい。1933年にドレスデンで行われた初演は、タクトを取る予定であった音楽監督のフリッツ・ブッシュが、ナチス政権によって解雇されてしまったため、ウィーンから急遽クレメンス・クラウスが呼ばれて初演の舞台を務めたのだった。

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 シュトラウスとクレメンス・クラウス

アバンギャルドな音楽が幅をきかせていた当時、このオペラはいかにもアナクロに響いた事だろうが、このオペラの音楽は、ノスタルジックな雰囲気を一杯にたたえながら、あくまでも美しい!

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 メトロポリタン・オペラの2014年の舞台

シュトラウスの素晴らしさは、ワーグナー以来のドイツ的な、言葉と音楽を有機的に結び付きをより一般聴衆に受けられやすい形に洗練させていった事にあるのだと思う。それが端的に表れているのがこの作品。

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 ウィーン国立歌劇場の2012年の舞台

ハンガリーの名指揮者、ショルティウィーン・フィルを指揮したこの盤は、指揮はやや力づくのところがあるものの、当時ウィーンを中心に活躍していた一線の歌手を揃え、このオペラをしみじみと堪能できる名盤!

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リヒャルト・シュトラウスの生涯をたどって: その5 〜 時代から取り残されて

時代の最先端をいく「ナクソス島のアリアドネ」の後、シュトラウスが取り組んだのは、ディアギレフロシア・バレエ団のために作曲したバレエ音楽「ヨゼフ伝説」だったが、1914年にパリで初演されたこの作品、そこそこの成功を収めたものの、音楽評論家のパウル・デッカーシュトラウスの音楽を、「単に舞台で起こっている事をなぞっているだけで、創造的な力が驚く程衰えている」と酷評している。早くも、シュトラウスの創造力に陰りが見えてきたのだろうか。

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この初演から2ヶ月たたないうちに、第1次世界大戦が勃発し、シュトラウスイギリス政府によって、ロンドンの銀行にあった自分の口座を没収され、ほぼ全財産を失ってしまう。

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 1914年頃のシュトラウス

激変する時代環境の中で、シュトラウスの芸術は徐々に時代の要請からズレ始めてたようだ。1915年10月には、ベルリンアルプス交響曲の初演が行われたが、楽天的な響きに満ちたこの交響曲は、一般聴衆からは好意的に迎えられたものの、パウル・ベッカーからは、空虚で陳腐化してしまった音楽として、またしても痛烈に批判されている。

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但し当時のシュトラウスは、それほど楽天的だった訳でもなく、戦中から戦後の混乱期の中で、彼も彼の家族も、一般のドイツ人同様、苦労を重ねたようだ。そのような中で作曲されたのが、オペラ「影のない女」

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 メトロポリタン歌劇場における「影のない女」の舞台

戦前に開始された作曲は、戦争の混乱のためか、はたまたシュトラウスの創作力の衰えのためか、以前のようにはなかなか進まず、完成したのは1919年。ベッカーから、またもや痛烈な批判を浴びたこの作品、シュトラウス自身もその出来映えには満足していなかったようで、「ばらの騎士」に出てくる生身の人間に比べて、「影のない女」に登場する皇帝や皇后には、どうしても情熱を持てないと、弱音を吐いたりしている。この後、シュトラウスの創作活動、長い停滞期に入ってしまうのである。

アルプス交響曲
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アルプス交響曲
ルドルフ・ケンペ指揮 ドレスデン・シュターツカペレ(1972年録音)

シュトラウスのオーケストラ作品は作曲活動の前半に集中しているのだが、 この曲は、キラ星のごとく並ぶその作品群の中で最後を飾るオーケストラ作品。

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 シュトラウスが作曲を行ったガルミッシュの山荘

ミュンヘン郊外の保養地、ガルミッシュ・パルテンキルヘンに構えた山荘で、アルプス山脈を眺めながら3ヶ月あまりで作曲されたというこの曲、出発前の情景・頂上につくまで・頂上での気分・下山・到着の感動 という5つの標題がつけられているが、シュトラウスは大規模な編成を必要とするオーケストラと練達のオーケストレーション技法で、その標題を見事に音楽で表現し切っている。

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 シュトラウスも眺めたであろう、ガルミッシュからのアルプスの眺め

この曲を初演したドイツ最古のオーケストラ、ドレスデン・シュターツカペレを指揮したドイツの名指揮者ルドルフ・ケンペの盤は、スケール豊かにこの曲を演奏しながら、いぶし銀のようなこのオーケストラの音色をうまく引き出した、派手になり過ぎない演奏で、この曲を味わうには最適なもの!

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リヒャルト・シュトラウスの生涯をたどって: その4 〜 絶頂期

これまで、ヨーロッパ楽壇のメイン・ストリームであるオペラの分野で成功を収める事が出来なかったシュトラウスだが、1904年に発表した「サロメ」で、成功どころか、その後の西洋音楽の方向性を決定づけるような影響を与える事になる。

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原作となったオスカー・ワイルドの戯曲に挿入されたオーブリー・ピアズリーによる挿絵

その一つ前の作品である「家庭交響曲」とは似ても似つかぬ作風のこのオペラ、複調の多用・限りなく無調に近づいた音楽による極端までに表現主義的な音楽は、シェーンベルクベルク12音音楽の創始者たちのみならず、マーラープッチーニまでに大きな影響を与え、プッチーニの遺作オペラ「トゥーランドット」などは、「サロメ」の影響を色濃く感じる作品となったぐらいの、衝撃的な事件であった。

       Puccini
      プッチーニ

また、次作の「エレクトラ」同様、オペラに向くように原作をベースにした台本を使用する事なく、原作をそのままオペラにしてしまうという点でも画期的な作品で、この2作により、シュトラウスは時代の最先端を行く作曲家としての評価を決定的なものにする。

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      初演時にサロメ役を演じた Marie Wittich

12音音楽の創始者、シェーンベルクとの親交が深まったのこの頃で、彼がメーテルリンクの「ペレアスとメリザンド」をオペラではなく、交響詩として作曲したのも、シュトラウスの助言に基づいてだった。しかしながら、この後、シュトラウスはシェーンベルクからの自作演奏の願いをことごとく断ったおかげで、程なく関係は断絶してしまう。

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      シェーンベルク

「サロメ」「エレクトラ」の2作で、当時の前衛の最先端に立ったシュトラウスだったが、次作の「ばらの騎士」では、一転して前衛から古典へと大幅な方向転換を見せる。

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 当時のシュトラウス

フーゴ・フォン・ホフマンスタールとの最初の共作となったこのオペラは、ヴォルフ=フェラリーの単純で明るい喜歌劇がもてはやされていた当時の社会の空気を敏感に察知してか、ノスタルジーの雰囲気に満ち溢れた作品に仕上がっていて、1911年5月に初演されるや、空前のヒットを記録し、上演が行われていたドレスデンへの特別列車が用意されるほどであった。

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      当時のホフマンスタール

「ばらの騎士」で、ドイツ音楽界随一の存在となり、自作の指揮だけをすれば良い身分となった彼が次にホフマンスタールと組んで作曲したのが、「ナクソス島のアリアドネ」。当代随一の名演出家、マックス・ラインハルトを起用して1912年 月に初演されたこの作品は、前半にモリエール「町人貴族」・後半にシュトラウスのオペラを組み合わせ、しかもオペラの部分も、オペラ・セリアとオペラ・ブッファを融合させるという、意欲的な作品だったのだが、この試みも、演劇ファン・オペラファン双方からの評判が悪く、結局、演劇部分と音楽部分を分ける事になり、オペラの改訂版はあらためて1916年10月にウィーンで初演されたのだった。

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      ウィーン初演時にツェルビネッタを歌った Selma Kurz

楽劇「ばらの騎士」
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楽劇「ばらの騎士」
元帥夫人: キリ・テ・カナワ(S)
オクタヴィアン: アンネ・ゾフィ・オッター(MS)
ゾフィー: バーバラ・ヘンドリックス(S)
オックス男爵: クルト・リドル(Br) ほか
ベルナルト・ハイティンク指揮ドレスデン国立歌劇場管弦楽団・合唱団(1990年録音)


「エレクトラ」に引き続き、ホフマンスタールと組んで完成させたオペラの第2作。ヨーロッパの楽壇に衝撃を与えた「サロメ」、その作風を一層押し進め、シュトラウスの作品としては限りなく無調に近づいた「エレクトラ」などから一変して、前時代へのノスタルジーに満ちあふれた作品となった。

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 2010年のメトロポリタン歌劇場のプロダクション

その典雅で優美な雰囲気、オペラ・ブッファの要素も取り入れるなど、シュトラウスとしては、それまでの時代の最先端をいっていた作風から後退したように取られるが、登場人物の感情描写の巧みさ、音楽の充実度などが比類ない高い次元でバランスしていて、オペラ史上惨然と輝く傑作となっている。

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 2014年のザルツブルク音楽祭のプロダクション

特に、第1幕の元帥夫人のモノローグ、第2幕のオクタヴィアンとゾフィーの二重唱、第3幕の3人のトリオなど、甘美さ・優雅さの点で、想像を絶する美しい音楽世界を作り出していて、これ1作でもシュトラウスの名は音楽史上に刻み込まれてしかるべき、というほどの作品。

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 2013年のウィーン国立歌劇場のプロダクション

一般的には名歌手エリーザベト・シュヴァルツコップを擁した1956年のカラヤン盤が代表盤として名高いが、録音も良く、キリ・テ・カナワ、アンネ・ゾフィ・オッター、バーバラ・ヘンドリックスと女性3名の水準が高いハイティンク盤もなかなか良い。

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 オランダの名指揮者ベルナルト・ハイティンク

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リヒャルト・シュトラウスの生涯をたどって: その3

不遇だった最初のミュンヘン時代とは打って変わって、楽長として迎えられた今回は、待遇も破格で、30歳のシュトラウスは、今やニキシュワインガルトナーマーラーらと並ぶ指揮者界の新世代の旗手の一人と目されるようになっていた。

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 ベルリン・フィルとライプツィヒ・ゲヴァントハウス管の常任指揮者を務めたアルトゥール・ニキシュ

この時代の特筆すべき業績としては、当時まだ大作曲家としては見做されておらず、ロマン的に演奏される事が常だったモーツァルトの主要オペラを、演出も含め現代的な形で上演した事であった。

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とはいえ、相変わらず劇場の総支配人ベルハル男爵や歌劇場の歌手たち、さらには父親がいたにもかかわらず、オーケストラの楽団員との関係も悪く、そのせいもあって、自作の楽劇「グントラム」ミュンヘンで再演した際には、稀に見る大失敗に終わっている。

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後世に伝えられる、シュトラウスのこの頃の指揮スタイルは、晩年の、音楽に無関心なのではないかと取られかねないくらいクールな指揮ぶりとは違って、激しい身振りで時には興奮にかられたかのような、激しい音楽作りを特徴としていたようだ。またこの時代には、彼の代表作となる一連の傑作交響詩、「ツァラトゥストラはかく語りき」「ティル・オイレンシュピーゲルの愉快な悪戯」「ドン・キホーテ」などが作曲されている。

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     指揮姿のシュトラウス

第2次ミュンヘン時代も4年が経とうとしていた1898年、終身指揮者就任の打診を受けながら、契約金を値切られるなどの相変わらずの劇場側の行為に嫌気がさしたシュトラウスは、ベルリン宮廷歌劇場からのオファーをあっさりと受ける事にする。シュトラウスは34歳になっていた。

 Berlin Royal Opera

交響詩「ツァラトゥストラはかく語りき」
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交響詩「ツァラトゥストラはかく語りき」

アンドレ・プレヴィン指揮ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団 (1987年 録音)

スタンリー・キューブリック監督「2001年宇宙の旅」(69年)の冒頭に、この曲のオープニング部分が採用されて、クラシック音楽ファン以外にも幅広く知られる事になった、シュトラウスの代表作の一つ。

 2001 A Space Odyssey
 2001年宇宙の旅 冒頭シーン

言うまでもなく、表題はドイツの哲学者フリードリッヒ・ニーチェの代表作から取られていて、この曲の発表当時、周囲からは、哲学の音楽化をはかったとして称賛されたり、非難の対象となったようであるが、シュトラウス自身は、あくまで哲学的な音楽を書こうとしたのでもなく、ニーチェの著作を音楽で表現しようとしたのでもなく、彼の著作に触発されて、人類の発展を、その起源からニーチェの超人思想の境地に至るまでの道のりを音楽で表現しようとした、と述べている(その事自体が、哲学の音楽化と言えなくもないが)。

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第2次ミュンヘン時代の1986年8月に完成したこの作品は、同年11月にフランクフルトで、作曲者自身の指揮で初演されている。

曲は大きく4部に分かれているものの、全体が切れ目なく演奏され、あまりにも有名になった序奏部分に続き、シュトラウスらしい充実した音楽が展開されていく。

ウィーン・フィルを指揮したプレヴィン盤は、ウィーン・フィルらしさを最大限に生かした、美しくスケールの大きな演奏で、リリースされた当時、テラークの優秀な録音でも話題になったもの。この曲を抵抗なく味わえる点では最右翼の演奏。

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