リヒャルト・シュトラウスの生涯をたどって: その2

当時ドイツ屈指のオーケストラとして知られていたマイニンゲンの宮廷管弦楽団の見習い指揮者として、1885年9月、プロの音楽家としてのキャリアをスタートさせたシュトラウスだが、彼の庇護者だったハンス・フォン・ビューローが直後に辞職してしまったために、翌年3月には早くもマイニンゲンを去る羽目になってしまう。

 Hans von Bulow
 ビューロー

やむなく故郷ミュンヘンに戻って宮廷歌劇場の第三楽長となった彼だったが、着任に先立ち、イタリアへ旅行するチャンスを得る。ドイツとは全く異なるイタリアの風景に刺激を受けたこの旅行は、交響的幻想曲「イタリア」となって結実する。

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      シュトラウス

ミュンヘンでの指揮者生活は、美味しいレパートリーは自分には全く回って来ず、劇場の支配人カール・フォン・ペルハル男爵の嫌がらせにもあったりして、耐え難いものだったようだ。その反面、仕事があまり忙しくなかったため、作曲には時間を十分に費やすことが出来たおかげで、その成果は「マクベス」(1887年)「ドン・ファン」(1888年)「死と浄化」(1889年)らの作品となって形となる。

結局、ミュンヘンでの不遇な生活に音を上げた彼は1989年にはワイマール宮廷劇場の第3楽長に転出する。この時、彼の子飼いの歌手として、彼と一緒にワイマールに転出した歌手がいた。後にシュトラウスの妻となるパウリーネ・デ・アーナであった。

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      パウリーネ

ここでも第3楽長の身分ではあったが、ミュンヘンと違って劇場の人間関係は良好で、第1指揮者が老齢であった事もあって、シュトラウスには活躍の場が十分に与えられた。小規模な劇場であったにも関わらず、ここで彼はワーグナータンホイザーや、ローエングリン、さらにはトリスタンとイゾルデなどの大作の上演を手掛けている。その反面、指揮者としての活動が充実していたせいか、作曲の方ではあまり見るべき作品は完成させていない。

ワイマールでの生活は充実していた反面、スケジュールは殺人的で、過労がたたったシュトラウスは肺炎にかかってしまい、さらには肋膜炎になってしまう。プショール家の叔父から援助を受け、彼は一年間の休暇をもらってイタリア・ギリシャ・エジプトへの療養旅行に出かける。この療養旅行の成果として完成したのが、ワーグナーの影響が色濃く反映されている楽劇「グントラム」で、療養旅行から帰国後の1894年5月に、自身の指揮でマンハイムにて初演されている。9月にはパウリーネと結婚式を挙げたシュトラウスは、再び故郷ミュンヘンへ、今度は楽長として戻る事になるのであった。

交響詩「ドン・ファン」
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リヒャルト・シュトラウス 交響詩集
ヘルベルト・フォン・カラヤン指揮 ベルリン・フィル (1982年録音)


シュトラウスの代表作の中では最も初期に作曲されたもので、1888年、作曲家24歳の頃の作品。同時代のドイツの詩人、ニコラス・レーナウの詩「ドン・ファン」に触発されて作曲され、総譜の冒頭にもその詩が掲載されている。

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      レーナウ
 
レーナウの詩では、一般的に「ドンファン」伝説として一般的に知られている好色な貴族というイメージよりは、憧れの女性への至高の愛を追い求める理想主義者として描かれていて、この曲もその詩の内容を反映してか、情熱的に音楽が展開されていく。

初期の作品とはいえ、シュトラウスの管弦楽の使い方は全く見事で、演奏時間約17分程度の作品だが、最初から最後まで充実した音楽が展開される。

シュトラウスの演奏に定評のあるカラヤンのこの盤はバランスの見事さ、旋律の艶やかな歌わせ方など、やはり一頭地抜きん出ている演奏!

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